
目次
料理の魔術師が生み出した卵料理

ある時は「肉の魔術師」、ある時は「野菜の魔術師」と呼ばれ、現代フランス料理の頂点に君臨するアラン・パッサール率いるパリ7区の三つ星レストラン「アルページュ」。この名店を代表するショーフロア(温かい素材を冷たいソースで覆う料理)が「アルページュエッグ」。
世界中のさまざまなレストランがオマージュするその一品。かく言うReproのYouTubeチャンネルでも作家・料理家の樋口直哉さんがアレンジした「樋口エッグ?」を公開しています。
オマージュ1 樋口エッグ
このオマージュの最大のポイントは元々のキャトルエピスを中華料理のスパイス「五香粉(ウーシャンフェン)」に置き換えているところです。この2つはフレンチと中華なのにとても似た万能スパイスです。

【キャトルエピス】
シナモン
クローブ
ナツメグ
こしょう

【五香粉】
スターアニス(八角)
シナモン(肉桂)
クローブ(丁子)
花椒
フェンネル(茴香)
キャトルエピスは中世フランスで、五香粉は中国で宋代以降に発展したスパイス。そこに何らかの影響関係があったのかは知る由もありませんが、共通しているのは、例えばクローブのオイゲノールとかシナモンのシンナムアルデヒドなどの揮発性成分が脂肪に溶けやすく、どちらも肉料理の獣臭などを消すために昔から使われたのだろうと…
時代も場所も異なるけれど「肉料理を美味しく食べる方法」としての「共通解」に至ったのかもしれません。だから樋口さんもキャトルエピス ≒ 五香粉としてアレンジしているのでしょうか。
オマージュ2 滝本エッグ
もう一つのオマージュのバリエーションはYouTubeの料理王国チャンネルで、京都の名店「ラ・ビオグラフィ」の滝本将博シェフが作っているショーフロア。樋口直哉さんとの対談形式ですが、樋口さんがキャトルエピスの量にびっくりしていることからも分かるとおり、特徴的なのはキャトルエピスがとても多いこと。滝本シェフはアルページュでの修行経験があるので、よりアラン・パッサールの手法に近いのでしょうか…
2つのオマージュの違いは、
(1)樋口さんが湯せんしてからハーブ類をトッピングしているのに対し、滝本シェフはアッシェしたシブレット(あさつき)を乗せてから湯せんしている。「このネギの香りが効いてくる…」とおっしゃっていることからもシブレットの香りを湯せんで立たせることを意識しているようです。
(2)滝本エッグは卵白を少しだけ卵黄の周りに残していることと、動画で見た感じでは樋口エッグに比べると火が入っている感じがします。
そして先のとおり滝本エッグは「キャトルエピス」をふんだんに使っていることです。味付けの話で言えばキャトルエピスが興味深いですが、Reproのコラムとしては、やはり(2)に注目してしまいます。
樋口さんは卵白をほぼ取り除いているように見えるのに対し滝本シェフは意図的に卵白をわずかに残しています。ただし彼も水溶性卵白は取り除いています。
2つのアルページュエッグ比較
言わずもがな卵白と卵黄の凝固温度は異なるので、卵白を意図的に残すだけで、「外側の卵白には火を入れながら内側の卵黄には火を入れ過ぎない」という設計が必要になり、火入れの難易度は格段に上がります。
それぞれの動画では加熱温度と仕上がりのイメージについてこう語っています。
【樋口エッグ】
加熱温度=70℃
加熱時間=5分ぐらい?
卵黄の最終温度=不明
仕上がりイメージ=フチの卵白が白く固まり、殻の底が十分熱くなったら
【滝本エッグ】
加熱温度=68℃
加熱時間=8〜10分
卵黄の最終温度=64.3℃
仕上がりイメージ=卵白と卵黄が剥がれそうで剥がれないぐらい(当然外周の卵白には火が入っている)
料理王国チャンネルの動画で樋口さんが滝本エッグを試食しているシーンを見る限り、滝本エッグは卵黄の底のほうが少しだけ凝固している印象が。
画像のイメージからは樋口エッグより滝本エッグの方が火が入っている感じです。
滝本エッグはなかなかに微妙な火入れです。滝本シェフは「ルセットではできない。経験や知識が必要…」とおっしゃっています。
アルページュエッグのレシピ
その通りなんでしょう。でもそう言われると逆にチャレンジしてみたくなるのが人情です。
料理王国チャンネルの動画で、樋口さんが美味しそうに試食していたので、まずは滝本エッグ的なものを作ってみましょう。
加熱温度・加熱時間・仕上がりの中心温度も分かっていますしね…
アルページュエッグの材料・分量
- たまご⋯4個
- フルール・ド・セル⋯少々(0.3〜0.5g)※たまご1個分の分量です
- 白こしょう(細かめに潰したもの)⋯少々
【トッピング】
- シブレット(あさつき)みじん切り⋯適量
- メープルシロップ⋯適量
【ホイップクリーム】
- シェリービネガー⋯小さじ1(5ml)
- 生クリーム(35%)⋯100ml
- キャトルエピス⋯1.5g
- フルール・ド・セル⋯少々(0.5g)
- ディジョンマスタード⋯小さじ1(6g)
調理道具
湯せんする鍋やホイップクリームを作るためのホイッパーはともかくとして、このレシピに必須な特殊な調理道具は…

まずは何と言ってもエッグトッパー(クープドウッフ)。この小洒落た道具がないと始まりません。

そして絞り袋。あの小さなたまごの中にホイップクリームを入れるので必需品です。
それでは作っていきましょう!
マスタードとシェリービネガーを混ぜる

ホイップクリームとたまご、どちらから作り始めても良いのですが、今回はホイップクリームから。
まずボウルにマスタードとシェリービネガーを入れて混ぜ合わせます。
生クリームを軽くホイップ

生クリームとフルール・ド・セルひとつまみを投入して、軽くホイップします。ビネガーが入っているので簡単に固まりますが、念のため氷水でボウルを冷やしながら作業をしましょう。
キャトルエピスを投入

生クリームにちょっと粘性が出てきたらキャトルエピスを投入します。かなり思い切ってドバッと入れています、
キャトルエピスを入れたら、さらにホイップします。
7分立て?で絞り袋へ

仕上がりの感じは6分立て? なにしろこの写真ぐらいの緩さにしました。

絞り袋に充填したら冷蔵庫へ。

「ホイップクリームはエスプーマで作る」という方は、生クリーム(35%):牛乳=2:1ぐらいの割合にするのが良いあんばいかと。
たまごをカットして卵白を取り除く

エッグトッパー(クープドウッフ)でたまごの殻をカットします。滝本シェフはエッグトッパー1発で爪を入れて殻を取り外していましたが、真似をしてみるとこれが結構難しい。
樋口エッグの動画では、エッグトッパーを少しづつ回しながら3回ぐらい衝撃を与えてペティナイフの先で殻を取り外しています。こっちの方が失敗しにくく真似しやすいですね。
うちのエッグトッパーは、付属のスプリングに乗せてトッパーの衝撃を与えます。スプリングが過剰な衝撃を吸収してくれるのでなかなかに便利です。

殻を外すと卵白があふれてくるので、殻を開ける時はボウルの上で作業しましょう。
そして卵白・カラザ・水溶性卵白を取り出します。
カラザが取り出しにくい時はピンセットで丁寧に。
滝本シェフは、少しだけ卵黄周辺の卵白を残しておくようにおっしゃっています。まあ樋口さんのように全卵をいったんボウルにあけて、卵黄だけを戻すという作業をしない限り、多少の卵白はいやでも卵黄の周りに付着しているでしょう。(このやり方だと卵白を意図的に増やすのは難しそうですが、卵白を取り出す時に殻に垂れないので、「きれいに作る」という意味では合理的な段取りです)
ただしどちらの方法でも水溶性卵白(ゆるゆるの水みたいなやつ)は必ず取っておきましょう。
たまごにアセゾネ(塩こしょう)

フルール・ド・セルをひとつまみ、均等にまんべんなく振りかけます。さらにボウルの裏などで細かく潰した白こしょうも振りかけます。(PEUGEOTのペッパーミルなどをお持ちなら、最粗目にセットすれば似たような感じになるかとは思いますが)

さらに細かく刻んだシブレット(あさつき)もトッピングします。滝本シェフはシブレットも一緒に湯せんしてネギの香りが効いてくる、とおっしゃってました。樋口エッグでは、湯せん後にハーブ類を加えています。このあたりはまさに料理人の個性ですね。
ちなみに冷蔵庫から出したたまごは常温に戻しておきます。今回は冷蔵庫から出したてのたまごの卵黄の温度は4℃でした。
そして湯せんにかける直前には19.9℃まで上げました。
70℃で10分間湯せん

Reproに鍋を置いて加熱スタート。設定温度を何℃にするか悩ましいです。
滝本シェフは、目安は68〜70℃で8分〜10分とおっしゃっていましたが、動画を見る限り途中で少なくとも71℃以上にお湯の温度は上がっていたしなあ…
ということで、いったん70℃で10分間湯せんしてみることに。
湯せんスタート

たまごを静かに投入。おおっ!ちゃんと浮いた…
なんかうれしいです。
70℃10分加熱後の中心温度は?

湯せん後の取り出したたまご。まあ粘性も出ているし、いい感じかなあと思ったのですが、
卵黄の芯温を測ってみると、
56.4℃…
ええっ? 全然64.3℃なんかにならないじゃないですか。測り方がいけなかったのかなあ…

一応ホイップクリームをトッピングして完成させてみました。
食べてみると、卵黄はトロトロしていて普通に美味しいです。キャトルエピスをドバっと入れたのも結構イケてますねえ。
でもどうしてこんなに温度が違うのか、それに滝本シェフの仕上がりは動画で見る限り、卵黄の底面が固まりかけていたような…
72℃10分加熱
もうちょっと湯せん温度を上げて、温度勾配を付けて作ってみましょう。
72℃で10分間湯せんしてみました。

これが72℃で10分間湯せんした後の卵黄です。卵白の部分は白くなり、滝本シェフがおっしゃっていた「卵白と卵黄が剥がれそうで剥がれないぐらい」の仕上がりイメージになっています。
中心温度=63.5℃

ホイップクリームとメープルシロップをかけて試食してみます。
これは美味しい!
70℃10分でも美味しいと思いましたが、なんだか格段にコクが増した感じです。
そして底面がわずかに凝固しかかっています。
わずか2℃でこんなに味に違いが出るんですね…
72℃・10分間湯せんの卵黄中心温度推移

ということで、また実験してしまいました。鍋の中にちょうど良いサイズのティーストレーナーを沈め、そこにアルページュエッグを入れて、上からニードルタイプの温度センサーを卵黄の中心に刺します。そして72℃・10分間の湯せんで温度はどう推移するのか?を計測しました。
卵の直径は約45mm、重量は67g(殻付き)です。サイズで言うと「Mサイズ」になるのでしょうか?ちょっとLに近いM?
ちなみに元々「たまごは常温に戻す」ということだったので、20℃スタートにしました。私の家だと冷蔵庫から出して25分前後で20℃になるようです。

これが72℃・10分湯せんした場合の卵黄中心温度の推移です。この実験では湯せん終了時に中心温度=62.8℃でした。お湯から引き上げても余熱で若干の火が入るでしょうから、やっぱり72℃で10分間湯せんすると、このサイズなら中心温度は63℃前後になるのでしょう。
アルページュエッグの予測式
あまりにきれいなグラフを描いているので、ちょっと深堀りしてみたくなりました。

「料理のわざを科学する: キッチンは実験室」という名著の作者ピーター・バラムさんは、この本の中で、ゆで卵について「望みのゆで卵ができる時間」という指数モデルの式を紹介しています。

t:加熱時間
Tb:湯せん温度
T0:開始時の卵の温度
Tc:卵黄中心温度
ln:自然対数(㏒ e)
τ:時係数
元々の式はゆで卵(=全卵)の場合だし、今回の場合は卵のサイズ、湯せん温度、目標温度は一定なので、上の式は元のものから少し変えて純粋な指数モデルにしてみました。
(例えばバラムの式における自然対数の分子にある「2」という係数は「球体の熱拡散方程式の第一固有モード」の近似解を置いた近似係数だと思われるので、多層の球体ではない今回の場合はτ(タウ)に吸収されると解釈して「なし(=1)」にするとか…)
もし、バラムさんが紹介している「指数モデルが妥当」なら実験のデータから正しいτ(タウ)が導き出せるはずです。
*******以下計算は省略*******
グラフの曲線から外乱要因が多い冒頭1分間を省き、1分目以降から回帰させてτ(タウ)を計算すると、
τ(タウ)≒ 355秒
と算出されました。これを元に20℃スタート、72℃で10分間の数値を式に入れてみると、
63℃に到達する時間=10分23秒
すごい!ほぼ正確じゃないですか。ということはですよ、開始卵黄中心温度=20℃とすると
| 湯せん温度 | 63℃到達時間 |
| 72℃ | 10分23秒 |
| 70℃ | 11分31秒 |
| 68℃ | 13分23秒 |
と予測できちゃうって、ことじゃないですか。「アルページュエッグの予測式」の完成です!サイズ =「Lに近いM」という限定付きですが…(苦笑)
エクセルで計算するなら、
=(355*LN((B3-B2)/(B3-B4)))/86400 と数式を入力してセルの表示をmm:ssにすれば良いだけ。
B2:湯せん開始時の卵黄中心温度
B3:湯せん温度
B4:目標卵黄中心温度
です。
科学実験としては、実験のサンプル数N =1、湯せん温度 = 72℃だけ、という中学生の科学クラブでも「そりゃダメでしょ」と却下されるお粗末なレベルですが…
それでもなんか達成感あるなあ〜
Reproを開発して良かった♡
後はパリのアルページュで試食追試するだけだな。
絶対にこの出張申請も却下されると思いますが…
ともかく皆さん、騙されたと思って「アルページュエッグの予測式」とReproを使って、アラン・パッサールを超えるアルページュエッグを作ってみませんか?
これもReproレシピとして公開します。Reproユーザーの方はアプリから検索して使ってみてください。
【おまけ】
料理王国チャンネルの動画で、樋口さんが「卵白が緩衝材であることによって、卵黄に火が入り過ぎるのを防いでいる…」と解説していますが、この卵白の効果は実験データからも立証されています。
先ほどのグラフ、見た目にはきれいな曲線を描いているのですが、実は湯せん開始から2分後までの卵黄中心温度の上昇速度は2分目以降より遅いんですね。
これは外周の卵白の影響でしょう。卵白は卵黄に比べ水分が多く比熱が高いので熱バッファとして働いています。2分経って卵白が凝固し始めると次第に卵黄に熱が伝わり始めるという仕組みだと思います。
ちなみに「アルページュエッグの予測式」で計算すると、湯せん時間=10分で仕上がりの卵黄中心温度を64℃に持っていくためには、湯せん温度=74℃にする必要があります。
つまり滝本シェフのように「攻めたアルページュエッグ(比較的高温で湯せんする)」を狙う方は、火の入り過ぎを防止するためにも、わずかな卵白を残すことをお勧めします。
【おまけのおまけ】
…と書いた以上、74℃・10分も試してみました。美味しくて温度を測るの忘れましたが。

見た感じはかなり良い仕上がりです。

料理王国チャンネルの動画とほぼ同じ感じで、卵黄の下1/3ぐらいが柔らかく凝固しています。そしてさらに美味しいです。
日本人(いや私個人かも)は、半熟たまごに近くなればなるほど美味しいと感じるのかなあ…
味が、
塩味→こしょう→シブレット→ホイップクリームの酸味→シナモンの清涼感→メープルシロップの甘味
そして食感が、
半凝固した卵黄→卵黄ソース→ホイップクリーム
と、一つのたまごの中で味もテクスチャも重層的になっている感じが、さらに「洗練されたフレンチ」って雰囲気を増している気もするのですが…
Reproレシピは、一応72℃・10分間バージョンで公開していますが、個人的には74℃・10分間をお勧めします。



