魔法の黒い箱
その黒い箱がうちにやってきたのは4日前。ホテルのレストランでシェフをしている父が一人暮らしを始めたお祝いに、とプレゼントしてくれた。
なぜこれなの?と聞くと、
「これを使っていれば温度を一定にセットできるから火事の心配も減る」
というのが理由だった。いつまで経っても過保護な父親だ…
ともあれこの黒い箱は、色々なことができる「魔法の箱」だとも言われたので、どんな魔法が使えるのか、公式サイトを隅から隅まで読んだ。特にコラム記事を。
私も父親譲りで「凝り性」なところがある。
最も変な料理
そしてたどり着いた結論は、この黒い箱で最初に作るのは「最も変な料理」にしようということ。
就職して初めての休日。のどかな春の日。
同期の子たちは、今ごろ彼氏とのデートか友達と遊びに出かけて、キツかった最初の1週間のストレスを発散しているんだろうなあ…
アルページュエッグ
私が最も変な料理に認定したのは「アルページュエッグ」。
フランス パリ7区にある三ツ星レストラン「アルページュ」を率いる世界的にも有名なアラン・パッサールというシェフが考えた料理だという。
この料理、つまるところ「黄身だけの温泉たまご」にしか見えない。なぜ温泉たまごにそこまでのこだわりと情熱を注ぐのだろう。
そしてこの温泉たまごのコラム記事を書いている人もかなり変だ。
たかが温泉たまごに「指数関数」とかを持ち出してきて、「アルページュエッグの予測式ができた!」とはしゃいでいる。
料理ってそんな世界でしたっけ?
まるでF1みたいな始動音
ともあれ、温泉たまごにトッピングするホイップクリームを先に作り、鍋に水を張って黒い箱のスタートボタンを押した。
うぃ、うぃ〜ん
なんだかコンロとは思えない、強いて言えばレーシングカーのエンジンが始動する時みたいな、なんとも形容しがたい「物々しさ」を感じさせる音。
短く2段階に分かれて回り始めるファンの音も「オレは精密なメカだぜ」と主張しているよう。何?この子…
のどかな春の昼下がりに
と思ったのもつかの間、これまたスポーツカーのメーターパネルみたいなLEDパネルの中でスピードメーターのように上昇していく温度表示についつい見入ってしまった。
今までお湯を沸かす時にリアルタイムに温度計を見ながら料理したことなんてなかったから。
この箱を作った人、絶対コンロだと思って作ってないな。
程なく設定温度の74℃に達したので、丁寧にトップをカットした たまごをそっとお湯に浮かべてみた。
たまごって、こんなにうまいことお湯に浮くんだ。
のどかな春の昼下がりに私は一人で何をやっているんだろう…
ヤバい!私なんか変なものに魅入られている、と気付いた時にはもう目が離せなくなっていた。
重層的な、あまりに重層的な
10分経ちアルページュエッグを取り出し、ホイップクリームをトッピングして、最後にメイプルシロップをかけたら完成。
さっそく底からすくうようにティースプーンで一口。
あっ、これ日本の味じゃない。
舌触りは、一番下がうっすら固まった温泉たまご。その上はとろみのあるエッグソース。そして一番上は軽やかなホイップクリーム。
味も、一番下は薄っすらと火が通ったたまご。その上にフルール・ド・セルのちょっと海を感じる塩味とシブレット(本当はあさつきだけど)のねぎの味。さらにホイップクリームに混ぜられたシェリービネガーとディジョンマスタードの日本ではあまり出会うことのない酸味。そして最後にメイプルシロップの甘味がやってくる。
すべてがこれでもかと言うほどに「重層的」だ。次から次へと違う味が舌の上を通り過ぎる。
うまく説明できないけど、普段 私が食べたり作ったりしている料理とは目指す場所が違うというか…
これがいつもお父さんが仕事をしている料理の世界なんだ。
自分の知らなかった世界を垣間見て、もっとこの世界を探検してみたいという気持ちが無性に湧いてくる。
魔法の正体
そしてようやくこの黒い箱の魔法の正体が分かった。こいつの魔法は「魔法のように美味しい料理が作れる」のではなくて、料理を作る人に魔法をかけるんだ。
「明日も自分の知らない新しい料理の世界を見てみよう」
って思わせる魔法。




